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高知地方裁判所 昭和60年(わ)207号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

訴因変更後の本件公訴事実は、「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和六〇年三月五日午後〇時五〇分ころ、普通乗用自動車を運転し、高知市五台山一三八四番地西方約五〇メートル付近道路(幅員約四メートル)を南国市方面から高知市仁井田方面に向かい時速約三〇キロメートル乃至三五キロメートルで進行していたが、当時降雨中であつて、アスフアルト舗装の路面が湿潤し、滑走しやすい状況であつたから対向車を認めた際、不用意な制動措置をとることのないよう、あらかじめ減速して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前記速度で進行した過失により、対向車を認め急制動して自車を道路右側部分に滑走進入させ折から対向してきた石坂道雄(当時五六年)運転の普通乗用自動車に自車を衝突させ、よつて、同人に対し加療約四か月間を要する口唇部裂創等の傷害を負わせたものである。」というのである。被告人の当公判廷における供述、同人の検察官事務取扱検察事務官(昭和六〇年三月二二日付)及び司法警察員に対する各供述調書(以下「被告人の検取調書、員面調書」という。)、石坂道雄の司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の実況見分調書(昭和六〇年三月五日付)及び写真撮影報告書、司法巡査作成の捜査報告書、医師伊藤篤作成の診断書並びに医師森沢祥三の「交通事故負傷者の治療状況等について(照会)」に対する「回答」と題する書面によれば次の事実が認められる。

被告人は昭和六〇年三月五日午後零時五〇分ころ降雨の中、普通乗用車(以下「被告車」という。)を運転し、高知市五台山一三八四番地西方約二一メートル付近道路を南国市方面から高知市仁井田方面に向かつて道路左側を時速約三〇乃至三五キロメートルで進行中約五二・七メートル前方に対向して進行してきた石坂道雄運転の普通乗用車(以下「被害車」という。)を発見し、右地点より約九・二メートル進行して被害車との距離が約三四メートルに迫つて離合するためブレーキをかけたところ約八・七メートル進行して被告車は右斜前方に滑走し、左にハンドルを切るもそのまま被告車の前部が被害車前部と前記地番西方約五〇メートルの地点で衝突したこと、被害車は時速約四〇キロメートルで進行していたが被告車との離合のため減速し、被告車と衝突した時はほぼ停止していたこと、右衝突により右石坂は当初加療一〇日、昭和六〇年五月八日現在さらに二か月間の治療または入院見込とされる口唇裂創、頭部外傷、胸部打撲傷の傷害を負つたこと、本件事故現場付近の道路は高知県知事により一般車両の進行が禁止されているが、アスフアルト舗装の平坦で幅員約四メートル、やや左にカーブしているがほぼ直線の道路で見通し状況は良好であり、被告車の幅は一・七二メートル、被害車の幅一・六七メートルであつたことの各事実が認められる。

そこで被告人の被害車発見後の制動措置が急制動といえる程度であつたかをまず検討する。

被告人は前掲員面調書で「私は少しブレーキを強めに踏んだわけですがそうしますと〈3〉から後部がふり右前方に滑べりだしました。」と、検取調書で事故原因につき「急制動したことです。」とそれぞれ供述しているのであつて急制動したとの証拠も存する。

しかしながら、(1)右道路状況の下で対向車と離合するのであれば、本件公訴事実記載の速度以上で走行していたのであればともかく、前記程度の速度で進行し、対向車をその間隔が五〇メートル以上ある段階で発見したのであるから離合のための徐行をするに足る程度の制動措置で足り、急制動の措置をとることは甚だ不自然であること、(2)証人刈谷健一は本件事故現場付近の道路は南側(被告車走行部分)の約三分の一が滑りやすかつたと当公判廷で供述するところ、同人の右供述、前掲石坂道雄の司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の昭和六〇年五月一六日付実況見分調書及び横山眞造作成の写真四〇葉によれば本件事故後、本件事故現場付近の三か所に刈谷健一が「とばすな、すべる」と記載した縦一・一五メートル、横〇・四メートルの標識を立て、本件事故現場付近の道路南側をつるはしで傷つけ、滑りにくくしていること、また被害車が被告車よりもわずかに速い時速四〇キロメートルで走行しているにもかかわらず離合のため制動したが全く滑走していないことにてらせば右刈谷証言の信用性は高いものといえ、右供述から本件事故については本件道路が滑り易く、とりわけ南側部分が滑り易かつたため被告人が離合のため減速徐行すべく制動措置をとつた際に被告車右側車輪接地部に比し、左側車輪接地部の路面の摩擦係数が低かつたため右斜前方に進行したため惹起された可能性も否定しきれないことに照らせば、被告車が滑走したことから被告人が急制動の措置をとつたと認定するにはなお合理的疑いが存する。

そこで、さらに被告人が本件事故現場付近を時速約三〇乃至三五キロメートルで走行したことが湿潤した道路状況に合致しない減速義務懈怠といえるかについて検討する。

湿潤した路面において自動車を走行中急制動すると滑走し、制御不能となりうることは自動車運転者としての常識であり、不用意な制動措置をとることのないような程度の速度で走行すべき注意義務があることは検察官の主張するとおりである。しかしながら本件においては、右認定によれば被告人は時速約三〇乃至三五キロメートルで本件事故現場付近を走行し、被害車発見後離合のため徐行すべくブレーキをかけたにすぎないがそれにもかかわらず、平坦なほぼ直線道路で被告車が右斜前方に滑走したというものであつて、被告人が本件事故現場付近の路面状況即ち格別滑走しやすい状況を認識し、あるいは認識しえたと認めるに足る事実が認められない限り、被告人には右速度で走行中右程度の制動措置をとつたことによつて自動車が滑走しうることまで予見して減速して走行すべき注意義務を存しないというべきである。

本件についてこれをみるに、被告人は検取調書で付近に石灰工場があり同工場の廃液等が路面に長い距離に流出し滑走しやすい状況であつた旨供述しているが、本件事故直後に作成された司法警察員作成の昭和六〇年三月五日付実況見分調書には路面湿潤、高知県知事の規制により一般車両の通行が禁止されている場所である旨の記載があるのみで路面状況について右供述に沿う記載は何ら存しないことに加え横山眞造作成の写真四〇葉、証人横山眞造、同刈谷健一の当公判廷における各供述に照らすと、被告人の右供述のとおり被告人が本件事故現場付近の路面状況が格別滑走しやすいものであると認識していたと認定するには疑問が存し(右刈谷及び横山証言並びに戸田隆俊作成の損害賠償請求書によれば、被告人は本件事故について高知県及び株式会社刈谷石灰工業所にその責任を追及しようとしていたものと認められ、右検取調書は路面状況を誇張して供述しているものといえる。)、また高知県知事により一般車両の通行が禁止されていたこと、付近に石灰工場があること、被告人がこれまでにも本件道路を走行していたことなどの諸事情をもつてしても被告人が右路面状況を認識しえたと認めるにも疑問が存し、被告人には前記速度以下にまで減速すべき注意義務懈怠があつたとは認められない。

以上によれば、本件は本件事故について公訴事実記載の過失があつたことを認めるに足りる証拠はなく、本件公訴事実は犯罪の証明がないことになるから刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

よつて、主文のとおり判決する。

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